折原浩氏講演会の案内および資料
2004年3月4日
1.未來社からのご案内
「学問の未来――羽入書問題をめぐって」
時:2004年3月4日(木)午後7時〜
所:岩波ブックセンター・信山社3階 岩波セミナールーム
〒101-0051 千代田区神田神保町2-3
tel 03-3263-6601 fax
03-3265-5227
要電話予約(予約は岩波ブックセンター03-3263-6601へ)・先着100名・入場無料
主催:未來社
「学問は、偶像崇拝と偶像破壊との同位対立をこえたところにある」(折原浩著『ヴェーバー学のすすめ』「結論」より)ヴェーバーの実存的危機のさなかから生まれた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』(マックス・ウェーバー著、梶山力訳/安藤英治編、未來社、1994年)を、その原問題設定に立ち戻り批判から擁護する、折原浩氏著『ヴェーバー学のすすめ』が刊行されました。本書は、ヴェーバー論でありながら、学問研究への厳密な意識と誠実な態度で知られ、また東大闘争の「造反教官」としても知られた折原氏ならではの「学問論」でもあります。『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(羽入辰郎著、ミネルヴァ書房、2002年)への徹底した反論を通して、大学院の粗製濫造といった現在の大学が抱える構造的要因などにも触れつつ、すべての研究者・大学院生・指導教官へ、現在の大学・学問のあり方についての問題提起ともなっています。その『ヴェーバー学のすすめ』の著者・折原浩氏の講演会です。どうぞふるってご参集ください。
2.当日配布された資料
「書物復権」連続ブックフェア(岩波ブックセンター信山社)関連企画/未來社主催
2004年3月4日
岩波セミナールームにて
■学問の未来――羽入書問題をめぐって
■折原浩(おりはら・ひろし)氏略歴
1935年、東京生まれ。
1958年、東京大学文学部社会学科卒業。
1964年、東京大学文学部助手。1966年、東京大学教養学部助教授。1986年、東京大学教養学部教授。
1996年、名古屋大学文学部教授。
1999年、椙山女学園大学人間関係学部教授。2002年同学部退職。
著書に『大学の頽廃の淵にて――東大闘争における一教師の歩み』(1969年、筑摩書房)
『危機における人間と学問――マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌』(1969年、未來社)
『人間の復権を求めて』(1971年、中央公論社)
『マックス・ウェーバー基礎研究序説』(1988年、未來社)
『ヴェーバー「経済と社会」の再構成――トルソの頭』(1996年、東京大学出版会)
『ヴェーバーとともに40年――社会科学の古典を学ぶ』(1996年、弘文堂)
『「経済と社会」再構成論の新展開――ヴェーバー研究の非神話化と「全集」版のゆくえ』(共著、2000年、未來社)
『ヴェーバー学のすすめ』(2003年、未來社)
はじめに――「羽入書問題」とは?
羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知
的誠実性」の崩壊』、2002年9月、ミネルヴァ書房刊(以下、羽入書)
折原浩書評「四擬似問題でひとり相撲」(東京大学経済学会編『季刊経済学論集』第69 巻第1号、2003年4月、77-82ページ)、
折原浩著『ヴェーバー学のすすめ』、2003年11月、未來社刊
羽入書そのもの(と、その動機/背景)の問題 → §§1,2
羽入書への対応側の問題(ヴェーバー研究者の対応、「山本七平賞」授賞)→ §§3,4
「専門的業績」にたいする「専門家」の責任/社会的責任(説明責任)に関連して:
§1.羽入書そのものの問題――例示として「第二章 "Beruf"-概念をめぐる資料操作――
ルター聖書の原典ではなかった」(他の三章については『ヴェーバー学のすすめ』第二章、参照)
1.羽入の「問題」設定(=「擬似問題」の持ち込み)
2.「倫理」論文第一章「問題提起」第二節「資本主義の『精神』」の内容構成
「倫理」論文全体の構成:第一章「問題提起」(第一節「信仰と社会層」、第二節「資本主義の『精神』」、第三節「ルターの職業観」)計66ページ;第二章(本論)「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」(第一節「世俗内禁欲の宗教的基盤」、第二節「禁欲と資本主義精神」)計122ページ。こうした全体の内容構成については、折原浩「『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」(『未来』、2004年3月号)参照。
第一章第二節:@方法論上の覚書――A暫定的例示のため、フランクリン文書から抜粋(「時は金なり」、「信用は金なり」)――B要約「自分の財産[改訂稿では資本]を増加させることへの利害関心が自己目的であるという前提のうえに立って、各人をそうした利害関心に向けて義務づける思想der Gedanke der Verpflichtungdes einzelnen gegenüber dem als Selbstzweck vorausgesetzten Interesse an der Vergrößerung seines Kapitals」(GAzRS, I, S. 33, 梶山力訳/安藤英治編『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の≪精神≫』)、第二刷、1998、未來社、91ページ、改訳)――Cヤーコプ・フッガーとの比較――D功利主義への転移傾向と、貨殖要請の「非合理的」超絶性。後者の背景/一定の宗教的観念との関連を示唆するものとして『箴言』22: 29(新共同訳「技に熟練している人を観察せよ。彼は王侯に仕え 怪しげな者に仕えることはない。」)を引用。この引用にヴェーバーの注記:「ルッター訳では≫in seinem Geschäft≪(その仕事に)とあり、旧英訳聖書では≪business≫とある。尚おこの点については後述する(→本稿134頁⑴参照[S. darüber S. 63 Anm.
1.]。)――Eこの「資本主義の『精神』」の歴史的「文化意義」を、「伝統主義」との比較によって確認
3.「倫理」論文第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」冒頭注記にたいする羽入の「問題」設定
4.「倫理」論文第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」冒頭注記の関連論点
§2. 羽入書に表白された執筆動機ならびにその構造的背景の問題
折原浩「虚説捏造と検証回避は考古学界だけか――『藤村事件』と『羽入事件』にかんする状況論的、半ば知識社会学的一問題提起」(未発表)
§3. 羽入書にたいするヴェーバー研究者の対応と、「専門家」の責任/社会的責任
折原浩「学者の品位と責任――『歴史における個人の役割』再考」(『未来』2004年1月号、
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hashimoto/に再録);雀部幸隆「山之内靖氏の『応答』についてひとこと」(上記HP);折原浩「各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答1(森川剛光氏と山之内靖氏への応答)」(上記HP);折原浩「大学院教育の実態と責任」(未発表)
§4.羽入書の「山本七平賞」受賞と「非専門家・選考委員」の責任
非専門家の無責任と専門家の無責任との相乗作用による虚像形成
オルテガ・イ・ガセが専門科学者を「野蛮な大衆人Massenmensch」と見る根拠(要旨):「狭い専門領域でわずかな業績を挙げただけなのに(そうした限界の自覚、したがってそうした限界をたえず乗り越えようとするスタンスを持たず、むしろ)なにか自分が『権威』『大御所』になったかのように思い込み、皆目分からないか一知半解な、他の領域についても、その道の専門家筋の意見を聞かず、傲慢不遜にふるまう」(Ortega-y-Gasset, Jose, Der
Aufstand der Massen, 1930, Gesammelte Werke,V, 1956,S. 90-1)。
雀部幸隆「学者の良心と学問の作法について――羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの
犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(ミネルヴァ
書房、2002年)の第12回山本七平賞受賞に想うこと」(『図書新聞』、2004年2月14/21日号、上記HPに再録);折原浩「学問論争をめぐる現状況――全国の研究者、読書家、学生/院生の皆さんへ」(上記HP)
むすび
羽入書そのものの問題、およびそこから探り出されてくる諸問題
「『専門家』による『専門的業績』」を衒った耳目聳動的虚説捏造
基調としての「抽象的情熱」「偶像崇拝と同位対立の関係にある偶像破壊」
その構造的背景:現代大衆教育社会における大学院の粗製濫造/「大学院大学」化、高学歴層におけるルサンチマン/破壊衝動の鬱積、「挫折秀才の逆恨み」問題
羽入書にたいする対応の問題、およびそこから予想される学問の未来
ヴェーバー研究者(=「専門家」)による責任(研究指導/論文査読、批判的検証/相互検証/論争)の回避;『マックス・ヴェーバー入門』の著者による社会的責任(『入門』読者にたいする「説明責任accountability」)の回避
こうした「専門家」の無責任につけこむ「非専門家」(オルテガの意味における「大衆人」的「著名人」「学識権威」、たとえば養老孟司、加藤寛、山折哲雄ら「山本七平賞」選考委員)の無責任な賞揚による虚像形成と、その影響
自由は、対極間(多極間)の狭間にある。どうして人は、一極に身を寄せたがるのか。
■引用資料集
引用1「実際に価値あり完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門的になしとげられたものeine spezialistische Leistungばかりである。それゆえ、いわばみずから遮眼帯を着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。」(GAzWL, 7. Aufl., 1988, Tübingen, S. 588-9, 尾高邦雄訳『職業としての学問』、第68刷、1993、岩波書店、22ページ、ただし、尾高訳は、spezialistischを「専門家的fachmännisch」と訳出。引用文中の強調も含め、下線による強調は引用者、以下同様)
引用2「フランクリンの『自伝』に引用されていた『箴言』22: 29の一節から"Beruf"という語を引き出し、そしてさらにはただこの"Beruf"という語の語源をたどることのみによって直接ルターへと遡る部分、この部分こそが『倫理』論文の全論証にとっての要をなす、………この部分の論証には、一つのアポリアが隠されている………。」(『羽入書』、68ページ。以下、ノンブルのみ記す。強調は引用者)
引用3「………ヴェーバーは、『箴言』22: 29のその箇所においてルターが"Beruf"という訳語を使ってはいなかった["Geschäft"で通した――引用者]にもかかわらず、フランクリンの用いた"Calling"という表現からルターの"Beruf"という訳語へと、『倫理』論文中において飛び移らねばならぬ、ということになる。
…ヴェーバーはもちろん、この事態が自らの論証にとって致命的となりかねぬことを良く知悉していた。彼はフランクリンの『自伝』からの引用部分に次のような短い注を付し、読者に対しこのアポリアを後ほど解くことを約束した。………ここで予告されている注こそが、"Beruf"に関するあの[第一章第三節冒頭の]有名な注である。」(69)
引用4「このアポリアを回避するためにこそ、妻マリアンネをして嘆かせたあの長大
な『脚注の腫瘍…』………は書かれたのである。」(71)
引用5「ここでのヴェーバーの主張をまとめてしまえば次のようになろう。ルターは、本来は『純粋に宗教的な概念』だけに用いられるはずであった"Beruf"という訳語を『ベン・シラの知恵』11: 20,
21における二つのギリシャ語ergonとponosとを訳す際にも、この二つのギリシャ語は純粋に世俗的な意味しか含んでいなかったにもかかわらず、用いてしまった。言い換えるならばルターは、元来は『世俗的職業』という意味しか含んでいなかったギリシャ語ergonとponosに対して、奇妙なことにも、純粋に宗教的な概念だけに普通は用いられるはずだった訳語"Beruf"をすっぽりとかぶせてしまったのである。『世俗的職業』の意味しか持たぬ語に純粋に宗教的な概念のみに用いられてきた訳語をかぶせてしまったこと、こうしたルターのこの言わば意訳から、宗教的観念ばかりか『世俗的職業』という意味をも含み入れた、あのプロテスタンティズムに特有の"Beruf"という表現が生まれたのであり、そして正にこれこそがルターの創造であったのである、と。」(72)
引用6「………一方では前者『箴言』22: 29は『倫理』論文の全論証の構成にとって極めて重要な箇所であるにもかかわらず、そして他方では、後者[『ベン・シラの知恵』11: 20, 21]における"Beruf"という訳はそれに比すれば、双方の勧告が『事柄として似ていた』がためのルターの思い違いから生じた言わば、単なる誤訳、不適訳、あるいは少なくとも余りにも自由な意訳とみなすべきようなものであるに過ぎぬにもかかわらず、なにがゆえに前者をあっさりと無視して後者を格別に重んずることがヴェーバーには許されるのか、………」(75)
引用7「ルターは、『コリントT』7:20における勧告と『ベン・シラの知恵』11:21における勧告との双方のに勧告における事柄としての類似性に影響されたために、前者の勧告『コリントT』7:
20において"Beruf"という訳語を自身が用いたことに引きずられ、ルターは後者の勧告『ベン・シラの知恵』11:
21においても、元来は宗教的観念を全く含んではいなかったギリシャ語"ponos"をも、『コリントT』7:20におけると同様"Beruf"と訳すに至った。それは同時に、ルター個人の『神の全き特殊な摂理へのますます精緻化されてきた信仰』に影響された結果でもあった。
………『神の普遍の意志によって望まれたものとして世俗の秩序を甘んじて受け入れようとする……彼の傾向』が、後に外典を翻訳した時期ほどにはまだ高まっていなかった『数年前』の時期に翻訳された『箴言』においては、したがってルターは訳語として"Beruf"ではなく"Geschäft"を選んだ。
…したがって、ルターの用語法の研究に際して、『箴言』22: 29における"Geschäft"という訳語を考慮にいれる必要はないのである。」(76-7)
引用8「ルッターは、一見全く異れるニ種の概念を、≫Beruf≪の語で翻訳している。第一は、パウロのklēsisで、神によって永遠の救いに召される意である。コリント前書1:26、エペソ1:18、4:1および4、テサロニケ後書1:11、ヘブル3:1、ペテロ後書1:10等はこれである。この場合の観念は純粋に宗教的であって、使徒の宣布せる福音を通して神の与え給うた招聘を指すものに過ぎず、このklēsis の観念は、今日の意味における世俗的な『職業』とは些しも関係がない。………――第二に、ルターは、………イエス・シラクの句として七十人訳には、en
to ergo sou palaiotheti及びkai emmene to pono
souとある個所を汝の労働に止まれbleibe bei deiner Arbeitとする代わりに、汝の職業に止まれbleibe in deinem Beruf及び汝の職業を離れるなbeharre in deinem Berufと翻訳し[た]。………ルッターのこのシラク書の翻訳は、私の知れる限りでは、ドイツ語の≫Beruf≪の語が全く今日の、純粋に世俗的な意味で用いられた最初の場合である。」(GAzRS,T,66、梶山訳/安藤編、139-40ページ)
引用9「私の知り得た限り、Berufではないが、Rufの語が(klēsis の翻訳として)世俗的労働の意味で使用されている最初の文章は、エペソ書四章に関するタウレルの美しい説教『[肥料を施しに行く]農民について』(Basler. Ausg. f. 117 V.)に見られる。曰く、『農民が忠実に自らのRuffに励むならば、自己のRufをなおざりにする僧侶達より、その生活は一層善良である。』この語は、こうした意味では、通俗的(非宗教的)用語とはならなかった。ルッターは、最初のうちRufとBerufとを混用している(Werke, Erl. Ausg.
51, S. 51参照)のみならず、彼の『キリスト者の自由』その他には、タウレルの右の説教と同じ観念が屡々見られるとはいえ、この点についてタウレルの直接的影響は決して明白ではないUnd
trotzdem Luthers Sprachgebrauch anfangs (s. Werke, Erl. Ausg.
51, S. 51) zwischen ≫Ruf≪
und ≫Beruf≪ schwankt, eine direkte Beeinflussung
durch Tauler durchaus nicht sicher, obwohl manche Anklänge gerade
an diese Predigt Taulers sich z. B. in der ≫Freiheit eines
Christenmenschen≪ finden.。というのは、ルッターは最初にはzunächst、タウレルの右の句のようにこの語を純粋に世俗的な意味では用いていないからである。」(GAzRS,T,66-7、梶山訳/安藤編、140-1)
引用10「かようにルッターの用いたBerufなる語の、一見全く異れる二種の用法に、連絡を与えるdie Brücke zwischen……schlagenものは、コリント前書の中の章句と、その翻訳die Stelle im ersten Korintherbrief und ihre Uebersetzungである。
ルッター訳聖書(現在の一般的な版)に従えばbei Luther (in den
üblichen modernen Ausgaben)、この句を中心とする前後関係は、左[下記]の如くである(コリント前書第七章[17〜31節])。」(GAzRS,T,67、梶山訳/安藤編、141-2)
引用11「然るにルッターは、各自その現在の身分に止まれとの、終末観に基づく勧告に関してklēsis を≫Beruf≪と翻訳した後、旧約外典を翻訳するに当たって[翻訳していたが、その後旧約外典を翻訳するにあたっては]各自その職業に止まるを可とするとの、イエス・シラクの伝統主義的反貨殖主義に基づく勧告に関しても、単に両者の実質的類似のみから[すでに事柄として似ていたので]、ponosを≫Beruf≪と翻訳したのであるAber Luther, der in der eschatologisch motivierten Mahnung, daß jeder in seinem gegenwärtigen Stande bleiben sollte,
klesis mit ≫Beruf≪ übersetzt hatte, hat dann, als er später die Apokryphen
übersetzte, in dem traditionalistisch und antichrematistisch
motivierten Rat des Jesus Sirach,
daß jeder bei seiner Hantierung bleiben möge, schon
wegen der s a c h- l i c h e
n Aehnlichkeit des Ratschlages
ponos ebenfalls mit ≫Beruf≪ übersetzt.。(これこそ重要な、注目すべき点である。前述の如く、コリント前書7:17のklēsis は、今日の意味の『職業』を指すものでは決してない。)その間(或いはほぼ同時)に1530年のアウグスブルク信仰告白は、カトリック教徒による世俗内道徳の軽視の無効に関する、プロテスタンティズムの教理を確定すると共に、『各人はその職業に応じて』
einem jeglichen nach seinem Beruf
の語を用いていた。このこと、及び恰も30年代の初葉、日常生活への神の摂理に対するルッターの信仰の深化すると共に、各人を支配する秩序を益々神聖視するに至ったこと、なおまた世俗的秩序を神の意志によるものとして、これを認受しようとする彼の態度が益々著しくなったことなどが、右のルッターの翻訳に現れたのである。≫Vokatio≪は、ラテン語の慣用語法では潔い生活への、とりわけ修道院におけるあるいは聖職者としての潔い生活への神の召命として用いられた。ルッターの場合には、かの教義の圧力によって、世俗内部における≫職業≪労働がそういう色調を帯びるようになったのである。なぜならば、ここでルッターはイエス・シラクにおけるponosとergonを≫Beruf≪と訳しているが、…… 数年前まではまだソロモンの箴言22:29のヘブライ語melākhāを、すなわち疑いもなくイエス・シラクのギリシャ語テキストにあるergonの語源であり、語幹l'kh=送る、贈る、すなわち『贈物』から導かれたものでもあり、そして、ドイツ語のBerufや北欧のKald, Kallelse同様、――とりわけ聖職者の≫Beruf≪に発するこの言葉を、その他の箇所(創世記39:11)同様に ≫geschäft≪と訳していたのだから。(七十人訳では、ergon、ヴルガータではopus、英訳[諸]聖書ではbusinessであり、手許にある北欧やその他あらゆる翻訳は一致している)。……かくしてルッターの造出した≫Beruf≪の語の今日の意味は、最初は単にルッター派の間のみに限られていた。カルヴィニストは旧約外典を聖典外のものと考えていた。彼らがルッターの職業の観念Berufs-Begriffを承認し、これを強調するに至ったのは、いわゆる『確かさ』(確証―編者)の問題が重要視されるに至ったあの発展の結果としてであった。彼らの最初の(ロマン語系の)翻訳では、この観念を示す語は用いられず、且つまた既に定型化(stereotypiert)されていた国語中にこれを慣用語とすることは出来なかった。」(GAzRS,T,68、梶山訳/安藤編、143-5)
引用12「ルターは、1522年の教会説教で、初めてBerufを、それまでの[聖職への]招聘Berufungの意味に代え、身分Stand、職務Amt、ないし命令Befehl(今日の『業務命令』を考えればよい)と同義に用いた。もとより、語義を詮索せず恣意的に変更したのではない。というのも、ルターは、まさにこの説教において同時に、全キリスト者は、およそ特定の身分に属するかぎり、当の身分に召し出されていると感得できる、との思想を詳細に述べているからである。身分がかれに課す義務は、神自身がかれに向ける命令である。"Beruf"という[前綴be-によって]強められた語は、こうした語義を、たんなる"Ruf"に比べて、ことにこの"Ruf"が使い古されて宗教的意味内容を失ったばあいに比べて、いくらか強く表現した。しかしながら、それ以降はもっぱら自分の導入した用語法にしたがうというのは、ルターの流儀ではなかった。かれは、そうした用語法とならんで、相変わらずBerufをBerufungの意味で用いたり、Berufの代わりに"Ruf"とか"Orden"とか、いったりしている。」(Holl,
Karl, Die Geschichte des Worts Beruf,
1924, Gesammelte Aufsätze zur Kirchengeschichte V, 1928, Tübingen,
S. 217-8)
アンケート
2004/3/4 岩波セミナールーム
■本日の折原浩氏の講演についてのご感想をお聞かせください。
■その他なんでもご意見をお願いします。
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3.折原浩氏が準備した資料(配布資料は以下の文面を再構成したものです)
「書物復権」/連続ブックフェア 第二段企画/未来社主催 講演会 3月4日 折原浩
学問の未来――羽入書問題をめぐって
はじめに――「羽入書問題」とは?
羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知
的誠実性」の崩壊』、2002年9月、ミネルヴァ書房(以下、羽入書)
拙稿書評「四擬似問題でひとり相撲」(東京大学経済学会編『季刊経済学論集』第69 巻
第1号、2003年4月、77-82ページ)、
拙著『ヴェーバー学のすすめ』、2003年11月、未来社
羽入書そのもの(と、その動機/背景)の問題
→ §§1,2
羽入書への対応側の問題(ヴェーバー研究者の対応、「山本七平賞」授賞)→ §§3,4
「専門的業績」にたいする「専門家」の責任/社会的責任(説明責任)に関連して:
引用1「実際に価値あり完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門的になしとげられたものeine spezialistische Leistungばかりである。それゆえ、いわばみずから遮眼帯を着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。」(GAzWL, 7. Aufl., 1988, Tübingen, S. 588-9, 尾高邦雄訳『職業としての学問』、第68刷、1993、岩波書店、22ページ、ただし、尾高訳は、spezialistischを「専門家的fachmännisch」と訳出。引用文中の強調も含め、下線による強調は引用者、以下同様)
§1.羽入書そのものの問題――例示として「第二章 "Beruf"-概念をめぐる資料操作――
ルター聖書の原典ではなかった」(他の三章については拙著第二章、参照)
1.羽入の「問題」設定(=「擬似問題」の持ち込み)
引用2「フランクリンの『自伝』に引用されていた『箴言』22: 29の一節から"Beruf"という語を引き出し、そしてさらにはただこの"Beruf"という語の語源をたどることのみによって直接ルターへと遡る部分、この部分こそが『倫理』論文の全論証にとっての要をなす、………この部分の論証には、一つのアポリアが隠されている………。」(『羽入書』、68ページ。以下、ノンブルのみ記す。強調は引用者)
引用3「………ヴェーバーは、『箴言』22: 29のその箇所においてルターが"Beruf"という訳語を使ってはいなかった["Geschäft"で通した――引用者]にもかかわらず、フランクリンの用いた"Calling"という表現からルターの"Beruf"という訳語へと、『倫理』論文中において飛び移らねばならぬ、ということになる。
…ヴェーバーはもちろん、この事態が自らの論証にとって致命的となりかねぬことを良く知悉していた。彼はフランクリンの『自伝』からの引用部分に次のような短い注を付し、読者に対しこのアポリアを後ほど解くことを約束した。………ここで予告されている注こそが、"Beruf"に関するあの[第一章第三節冒頭の]有名な注である。」(69)
引用4「このアポリアを回避するためにこそ、妻マリアンネをして嘆かせたあの長大
な『脚注の腫瘍…』………は書かれたのである。」(71)
2.「倫理」論文第一章「問題提起」第二節「資本主義の『精神』」の内容構成
「倫理」論文全体の構成:第一章「問題提起」(第一節「信仰と社会層」、第二節「資本主義の『精神』」、第三節「ルターの職業観」)計66ページ;第二章(本論)「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」(第一節「世俗内禁欲の宗教的基盤」、第二節「禁欲と資本主義精神」)計122ページ。こうした全体の内容構成については、拙稿「『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」(『未来』、2004年3月号)参照。
第一章第ニ節:@方法論上の覚書――A暫定的例示のため、フランクリン二文書から抜粋(「時は金なり」、「信用は金なり」)――B要約「自分の財産[改訂稿では資本]を増加させることへの利害関心が自己目的であるという前提のうえに立って、各人をそうした利害関心に向けて義務づける思想der Gedanke der Verpflichtungdes einzelnen gegenüber dem als Selbstzweck vorausgesetzten Interesse an der Vergrößerung seines Kapitals」(GAzRS, I, S. 33, 梶山力訳/安藤英治編『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の≪精神≫』、第二刷、1998、未来社、91ページ、改訳)――Cヤーコプ・フッガーとの比較――D功利主義への転移傾向と、貨殖要請の「非合理的」超絶性。後者の背景/一定の宗教的観念との関連を示唆するものとして『箴言』22: 29(新共同訳「技に熟練している人を観察せよ。彼は王侯に仕え 怪しげな者に仕えることはない。」)を引用。この引用にヴェーバーの注記:「ルッター訳では≫in seinem Geschäft≪(その仕事に)とあり、旧英訳聖書では≪business≫とある。尚おこの点については後述する(→本稿134頁⑴参照[S. darüber S. 63 Anm.
1.]。)――Eこの「資本主義の『精神』」の歴史的「文化意義」を、「伝統主義」との比較によって確認
3.「倫理」論文第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」冒頭注記にたいする羽入の「問題」設定
引用5「ここでのヴェーバーの主張をまとめてしまえば次のようになろう。ルターは、本来は『純粋に宗教的な概念』だけに用いられるはずであった"Beruf"という訳語を『ベン・シラの知恵』11: 20,
21における二つのギリシャ語ergonとponosとを訳す際にも、この二つのギリシャ語は純粋に世俗的な意味しか含んでいなかったにもかかわらず、用いてしまった。言い換えるならばルターは、元来は『世俗的職業』という意味しか含んでいなかったギリシャ語ergonとponosに対して、奇妙なことにも、純粋に宗教的な概念だけに普通は用いられるはずだった訳語"Beruf"をすっぽりとかぶせてしまったのである。『世俗的職業』の意味しか持たぬ語に純粋に宗教的な概念のみに用いられてきた訳語をかぶせてしまったこと、こうしたルターのこの言わば意訳から、宗教的観念ばかりか『世俗的職業』という意味をも含み入れた、あのプロテスタンティズムに特有の"Beruf"という表現が生まれたのであり、そして正にこれこそがルターの創造であったのである、と。」(72)
引用6「………一方では前者『箴言』22: 29は『倫理』論文の全論証の構成にとって極めて重要な箇所であるにもかかわらず、そして他方では、後者[『ベン・シラの知恵』11: 20, 21]における"Beruf"という訳はそれに比すれば、双方の勧告が『事柄として似ていた』がためのルターの思い違いから生じた言わば、単なる誤訳、不適訳、あるいは少なくとも余りにも自由な意訳とみなすべきようなものであるに過ぎぬにもかかわらず、なにがゆえに前者をあっさりと無視して後者を格別に重んずることがヴェーバーには許されるのか、………」(75)
引用7「ルターは、『コリントT』7:20における勧告と『ベン・シラの知恵』11:21における勧告との双方のに勧告における事柄としての類似性に影響されたために、前者の勧告『コリントT』7:
20において"Beruf"という訳語を自身が用いたことに引きずられ、ルターは後者の勧告『ベン・シラの知恵』11:
21においても、元来は宗教的観念を全く含んではいなかったギリシャ語"ponos"をも、『コリントT』7:20におけると同様"Beruf"と訳すに至った。それは同時に、ルター個人の『神の全き特殊な摂理へのますます精緻化されてきた信仰』に影響された結果でもあった。
………『神の普遍の意志によって望まれたものとして世俗の秩序を甘んじて受け入れようとする……彼の傾向』が、後に外典を翻訳した時期ほどにはまだ高まっていなかった『数年前』の時期に翻訳された『箴言』においては、したがってルターは訳語として"Beruf"ではなく"Geschäft"を選んだ。
…したがって、ルターの用語法の研究に際して、『箴言』22: 29における"Geschäft"という訳語を考慮にいれる必要はないのである。」(76-7)
4.「倫理」論文第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」冒頭注記の関連論点
引用8「ルッターは、一見全く異れるニ種の概念を、≫Beruf≪の語で翻訳している。第一は、パウロのklēsisで、神によって永遠の救いに召される意である。コリント前書1:26、エペソ1:18、4:1および4、テサロニケ後書1:11、ヘブル3:1、ペテロ後書1:10等はこれである。この場合の観念は純粋に宗教的であって、使徒の宣布せる福音を通して神の与え給うた招聘を指すものに過ぎず、このklēsis の観念は、今日の意味における世俗的な『職業』とは些しも関係がない。………――第二に、ルターは、………イエス・シラクの句として七十人訳には、en
to ergo sou palaiotheti及びkai emmene to pono
souとある個所を汝の労働に止まれbleibe bei deiner Arbeitとする代わりに、汝の職業に止まれbleibe in deinem Beruf及び汝の職業を離れるなbeharre in deinem Berufと翻訳し[た]。………ルッターのこのシラク書の翻訳は、私の知れる限りでは、ドイツ語の≫Beruf≪の語が全く今日の、純粋に世俗的な意味で用いられた最初の場合である。」(GAzRS,T,66、梶山訳/安藤編、139-40ページ)
引用9「私の知り得た限り、Berufではないが、Rufの語が(klēsis の翻訳として)世俗的労働の意味で使用されている最初の文章は、エペソ書四章に関するタウレルの美しい説教『[肥料を施しに行く]農民について』(Basler. Ausg. f. 117 V.)に見られる。曰く、『農民が忠実に自らのRuffに励むならば、自己のRufをなおざりにする僧侶達より、その生活は一層善良である。』この語は、こうした意味では、通俗的(非宗教的)用語とはならなかった。ルッターは、最初のうちRufとBerufとを混用している(Werke, Erl. Ausg.
51, S. 51参照)のみならず、彼の『キリスト者の自由』その他には、タウレルの右の説教と同じ観念が屡々見られるとはいえ、この点についてタウレルの直接的影響は決して明白ではないUnd
trotzdem Luthers Sprachgebrauch anfangs (s. Werke, Erl. Ausg.
51, S. 51) zwischen ≫Ruf≪
und ≫Beruf≪ schwankt, eine direkte Beeinflussung
durch Tauler durchaus nicht sicher, obwohl manche Anklänge gerade
an diese Predigt Taulers sich z. B. in der ≫Freiheit eines
Christenmenschen≪ finden.。というのは、ルッターは最初にはzunächst、タウレルの右の句のようにこの語を純粋に世俗的な意味では用いていないからである。」(GAzRS,T,66-7、梶山訳/安藤編、140-1)
引用10「かようにルッターの用いたBerufなる語の、一見全く異れる二種の用法に、連絡を与えるdie Brücke zwischen……schlagenものは、コリント前書の中の章句と、その翻訳die Stelle im ersten Korintherbrief und ihre Uebersetzungである。
ルッター訳聖書(現在の一般的な版)に従えばbei Luther (in den
üblichen modernen Ausgaben)、この句を中心とする前後関係は、左[下記]の如くである(コリント前書第七章[17〜31節])。」(GAzRS,T,67、梶山訳/安藤編、141-2)
引用11「然るにルッターは、各自その現在の身分に止まれとの、終末観に基づく勧告に関してklēsis を≫Beruf≪と翻訳した後、旧約外典を翻訳するに当たって[翻訳していたが、その後旧約外典を翻訳するにあたっては]各自その職業に止まるを可とするとの、イエス・シラクの伝統主義的反貨殖主義に基づく勧告に関しても、単に両者の実質的類似のみから[すでに事柄として似ていたので]、ponosを≫Beruf≪と翻訳したのであるAber Luther, der in der eschatologisch motivierten Mahnung, daß jeder in seinem gegenwärtigen Stande bleiben sollte,
klesis mit ≫Beruf≪ übersetzt hatte, hat dann, als er später die Apokryphen
übersetzte, in dem traditionalistisch und antichrematistisch
motivierten Rat des Jesus Sirach,
daß jeder bei seiner Hantierung bleiben möge, schon
wegen der s a c h- l i c h e
n Aehnlichkeit des Ratschlages
ponos ebenfalls mit ≫Beruf≪ übersetzt.。(これこそ重要な、注目すべき点である。前述の如く、コリント前書7:17のklēsis は、今日の意味の『職業』を指すものでは決してない。)その間(或いはほぼ同時)に1530年のアウグスブルク信仰告白は、カトリック教徒による世俗内道徳の軽視の無効に関する、プロテスタンティズムの教理を確定すると共に、『各人はその職業に応じて』
einem jeglichen nach seinem Beruf
の語を用いていた。このこと、及び恰も30年代の初葉、日常生活への神の摂理に対するルッターの信仰の深化すると共に、各人を支配する秩序を益々神聖視するに至ったこと、なおまた世俗的秩序を神の意志によるものとして、これを認受しようとする彼の態度が益々著しくなったことなどが、右のルッターの翻訳に現れたのである。≫Vokatio≪は、ラテン語の慣用語法では潔い生活への、とりわけ修道院におけるあるいは聖職者としての潔い生活への神の召命として用いられた。ルッターの場合には、かの教義の圧力によって、世俗内部における≫職業≪労働がそういう色調を帯びるようになったのである。なぜならば、ここでルッターはイエス・シラクにおけるponosとergonを≫Beruf≪と訳しているが、…… 数年前まではまだソロモンの箴言22:29のヘブライ語melākhāを、すなわち疑いもなくイエス・シラクのギリシャ語テキストにあるergonの語源であり、語幹l'kh=送る、贈る、すなわち『贈物』から導かれたものでもあり、そして、ドイツ語のBerufや北欧のKald, Kallelse同様、――とりわけ聖職者の≫Beruf≪に発するこの言葉を、その他の箇所(創世記39:11)同様に ≫geschäft≪と訳していたのだから。(七十人訳では、ergon、ヴルガータではopus、英訳[諸]聖書ではbusinessであり、手許にある北欧やその他あらゆる翻訳は一致している)。……かくしてルッターの造出した≫Beruf≪の語の今日の意味は、最初は単にルッター派の間のみに限られていた。カルヴィニストは旧約外典を聖典外のものと考えていた。彼らがルッターの職業の観念Berufs-Begriffを承認し、これを強調するに至ったのは、いわゆる『確かさ』(確証―編者)の問題が重要視されるに至ったあの発展の結果としてであった。彼らの最初の(ロマン語系の)翻訳では、この観念を示す語は用いられず、且つまた既に定型化(stereotypiert)されていた国語中にこれを慣用語とすることは出来なかった。」(GAzRS,T,68、梶山訳/安藤編、143-5)
引用12「ルターは、1522年の教会説教で、初めてBerufを、それまでの[聖職への]招聘Berufungの意味に代え、身分Stand、職務Amt、ないし命令Befehl(今日の『業務命令』を考えればよい)と同義に用いた。もとより、語義を詮索せず恣意的に変更したのではない。というのも、ルターは、まさにこの説教において同時に、全キリスト者は、およそ特定の身分に属するかぎり、当の身分に召し出されていると感得できる、との思想を詳細に述べているからである。身分がかれに課す義務は、神自身がかれに向ける命令である。"Beruf"という[前綴be-によって]強められた語は、こうした語義を、たんなる"Ruf"に比べて、ことにこの"Ruf"が使い古されて宗教的意味内容を失ったばあいに比べて、いくらか強く表現した。しかしながら、それ以降はもっぱら自分の導入した用語法にしたがうというのは、ルターの流儀ではなかった。かれは、そうした用語法とならんで、相変わらずBerufをBerufungの意味で用いたり、Berufの代わりに"Ruf"とか"Orden"とか、いったりしている。」(Holl,
Karl, Die Geschichte des Worts Beruf,
1924, Gesammelte Aufsätze zur Kirchengeschichte V, 1928, Tübingen,
S. 217-8)
§2. 羽入書に表白された執筆動機ならびにその構造的背景の問題
拙稿「虚説捏造と検証回避は考古学界だけか――『藤村事件』と『羽入事件』にかんする状況論的、半ば知識社会学的一問題提起」(未発表)
§3. 羽入書にたいするヴェーバー研究者の対応と、「専門家」の責任/社会的責任
拙稿「学者の品位と責任――『歴史における個人の役割』再考」(『未来』2004年1月号、
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hashimoto/に再録);雀部幸隆「山之内靖氏の『応答』についてひとこと」(上記HP);拙稿「各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答1(森川剛光氏と山之内靖氏への応答)」(上記HP);拙稿「大学院教育の実態と責任」(未発表)
§4.羽入書の「山本七平賞」受賞と「非専門家・選考委員」の責任
非専門家の無責任と専門家の無責任との相乗作用による虚像形成
オルテガ・イ・ガセが専門科学者を「野蛮な大衆人Massenmensch」と見る根拠(要旨):「狭い専門領域でわずかな業績を挙げただけなのに(そうした限界の自覚、したがってそうした限界をたえず乗り越えようとするスタンスを持たず、むしろ)なにか自分が『権威』『大御所』になったかのように思い込み、皆目分からないか一知半解な、他の領域についても、その道の専門家筋の意見を聞かず、傲慢不遜にふるまう」(Ortega-y-Gasset, Jose, Der
Aufstand der Massen, 1930, Gesammelte Werke,V, 1956,S. 90-1)。
雀部幸隆「学者の良心と学問の作法について――羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの
犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(ミネルヴァ
書房、2002年)の第12回山本七平賞受賞に想うこと」(『図書新聞』、2004年2月14/
21日号、上記HPに再録);拙稿「学問論争をめぐる現状況――全国の研究者、読書家、学生/院生の皆さんへ」(上記HP)
むすび
羽入書そのものの問題、およびそこから探り出されてくる諸問題
「『専門家』による『専門的業績』」を衒った耳目聳動的虚説捏造
基調としての「抽象的情熱」「偶像崇拝と同位対立の関係にある偶像破壊」
その構造的背景:現代大衆教育社会における大学院の粗製濫造/「大学院大学」化、高学歴層におけるルサンチマン/破壊衝動の鬱積、「挫折秀才の逆恨み」問題
羽入書にたいする対応の問題、およびそこから予想される学問の未来
ヴェーバー研究者(=「専門家」)による責任(研究指導/論文査読、批判的検証/相互検証/論争)の回避;『マックス・ヴェーバー入門』の著者による社会的責任(『入門』読者にたいする「説明責任accountability」)の回避
こうした「専門家」の無責任につけこむ「非専門家」(オルテガの意味における「大衆人」的「著名人」「学識権威」、たとえば養老孟司、加藤寛、山折哲雄ら「山本七平賞」選考委員)の無責任な賞揚による虚像形成と、その影響
自由は、対極間(多極間)の狭間にある。どうして人は、一極に身を寄せたがるのか。